不要不急
とんち話「一休さん」のモデルとなった一休宗純禅師の言葉に
「世の中は起きて箱して(トイレに行って)寝て食って後は死ぬるを待つばかりなり」がある。
人生なんてそんなもんだと達観することが必要ということなのだろう。
「釈迦といういたづらものが世にいでておほくの人をまよわするかな」という歌もある。
一休禅師は天皇の勅命で臨済宗大徳寺の第48世住持となった。
厳しい禅の修行によって悟りを開いた高僧が「釈迦といういたずら者が人を迷わす」というのだから洒落ている。
ちなみに田上町出身の大徳寺第530世住持泉田玉堂氏は、一休禅師から数えて482代後輩の住持となる。
「仏法は障子の引き手峰の松火打袋にうぐいすの声」も一休禅師の歌と伝えられている。
引き手がなくても障子は開閉できるが、引き手があった方が便利だ。
山の頂に松がなくても困らないが、あれば旅人の目印になるし、風景に彩りを添えることにもなる。
火打ち袋がなくても火打ち石は使えるが、袋があれば石が散乱したり紛失したりすることはなく、楽に持ち運ぶこともできる。
ウグイスが鳴かなくても春は来るが、ウグイスの鳴き声で草花がより美しく、香り高く感じられるようになる。
同じように仏法がなくても人は生きていけるが、仏法があれば人生がより充実したものになるといった意味だ。
新型コロナウイルスの感染が拡大し、「不要不急の外出は控えてください」と言われて一年半が過ぎた。
不要不急とは「どうしても必要というわけでもなく、急いでする必要もないこと」と辞書に書いてある。
緊急事態宣言や特別警報によって学校の運動会や文化祭、コンサートや講演会、業界団体や職場の親睦研修会などが次々と中止になった。
入院した知人の見舞いにも行けず、葬儀の参列方法まで変わってしまった。
老子や荘子は「無用の用」を説いている。
無用に見えても何かの役に立っている、この世に無用のものなどないといった考え方だ。
無用がなければ不要もない。コンサートや懇親会などがいかに日々の生活に必要なものであったかを実感している。