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為蔵死すとも八十里越は通す

 明治維新後の藩閥政治を批判し、憲法の制定や議会の開設などを訴えたのが「自由民権運動」だ。
 教科書には「板垣死すとも自由は死せず」の板垣退助などが運動の中心人物とあるが、もっと身近なところに偉大な運動家がいる。
 西潟為蔵翁だ。
 旧下田村福岡の地主の長男に生まれ、南蒲原郡選出の新潟県議を通算5期務めたほか、明治23年の第1回と25年の第2回の帝国議会衆議院議員選挙に新潟4区から2期連続当選した政治家だ。

 為蔵翁にまつわるエピソードに登場する人物がすごい。
 県議時代、三条叶津線、現在の国道289号線八十里越の開さくに努めたときのことだ。私財を投じて現地調査を行い、山縣有朋内務大臣に直談判した。
 松下村塾出身で日本陸軍の基礎を築いた「国軍の父」「元老の中の元老」と呼ばれた山縣だ。
 当時、八十里越は国道でも県道でもない、単なる里道だったが、為蔵翁はこの道の重要性を力説した。北越戦争に参加した山縣は「八十里越なら知っている。分かった」と国庫補助を認めた。

 為蔵翁は正義感や反骨精神も強烈だった。
 伊藤博文初代首相が尾崎行雄など自由民権派を保安条例で弾圧すると、憤慨した為蔵翁は伊藤氏に辞職勧告書を送り付けた。
 明治の最高権力者に、新潟から「総理を辞めろ!」と要求したのだ。
 怒った伊藤氏は出版条例違反容疑で為蔵翁を東京・鍛冶橋監獄に収監したが、為蔵翁にやましいところはない。結局、嫌疑不十分で釈放された。
 板垣から栃木県知事就任を打診されたときは「余は官吏を好まず」と断った。
 新潟大学の前身の新潟高等学校誘致や、新潟盲唖学校設立などにも力を発揮した。
 地域のために私財を投げ打ち、莫大な借金まで背負ったが、出世欲や権力欲とは無縁の人だった。

 昭和43年、当時の自民党幹事長田中角栄氏の揮ごうによる顕彰碑が生家近くに五十嵐川堤防に建立されたが、バイパス完成後、堤防の交通量は減った。
 為蔵翁の功績と理念を忘れてはならないとNPO法人西潟為蔵会(理事長・弥久保宏駒沢女子大教授)が発足した。
 八十里越もあと数年で開通する。
 大恩人を忘れてはならない。

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