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2018年11月19日

ボヘミアン・ラブソディ

 「オレたちはビートルズをリアルタイムで聴いてきたからね」と自慢する団塊世代がいる。
 ジョン・レノンやポール・マッカートニーの知り合いでもなければ、プロデュースにかかわったわけでもない。単にビートルズの活動時期と青春が重なっただけじゃないかと思う一方、「今週も『ヘイ・ジュード』が全米ヒットチャート第1位!」「新曲の『レットイットビー』、すごくいいね」といった感動を味わえた世代をうらやましくも感じる。
 ビートルズ解散後にその存在を知り、古典となりつつあったかつてのヒット曲を聴くのとは、感激の度合いがかなり違うのだろう。歌は世につれ世は歌につれ。自慢したくなる気持ちも分かるが、された方は面白くもなんともない。

 ビートルズ解散から3年後の昭和48年に英国のロックバンド、クイーンがデビューした。日本の音楽雑誌『ミュージック・ライフ』が高く評価したことなどもあって、米国よりも日本での人気が先行した。
 気をよくしたクイーンのメンバーたちは日本びいきとなり、ボーカルのフレディ・マーキュリーなどはたびたび女性用の和服を着た姿でステージに登場、『手をとりあって』では歌詞の一部を日本語で歌った。

 フレディの生涯を中心にクイーンの活動などを描いた映画『ボヘミアン・ラブソディ』が公開中だ。ラミ・マレックという俳優がフレディを演じているが、演奏シーンの多くにフレディ本人の歌声を使っている。ロックが好きな人は、音楽だけで十分に楽しめる。
 本編が始まる前の「二十世紀フォックス」のファンファーレからして他の映画とは違う。
 オーケストラではなくロックバージョン、それもクイーンのギラリスト、ブライアン・メイのギター演奏による独特の音になっている。
 終盤のライブエイドのシーンも圧巻だ。本物以上にクイーンっぽい4人がステージを熱演している。
 館内には『ウィウィルロックユー』をクイーンの曲と知らないまま、高校野球の応援で歌っているような世代もいた。
 そうした若者たちも音楽に感動して鼻水をすすっていた。
 「オレたちはクイーンをリアルタイムで聴いてきたんだぜ!」と言いたくなった。

2018年11月13日

まずは行動!

さまざまな理由で育児に手が回らない親がいる。貧困もあれば、自身の病気や障害もある。
 厚労省の調査によると日本の子どもの貧困率は13・9%。全体では米国より低いが、ひとり親世帯に限ると先進国最低の50・8%、2人に1人が相対的貧困に陥っている。
ひとり親が働いているため家庭でいつも1人で食事をしている子、親の手料理を食べることがないため好物を問われるとコンビニの商品名を答える子、学校行事に持参する弁当もコンビニで買う子がいる。
そうした子たちを応援したい、温かで、にぎやかな食事を提供してあげたいと思うのは人情。思うだけでなく、実践している人たちもいる。こども食堂だ。

県労働者福祉協議会などが10日に三条市総合福祉センターで開いたワーク&ライフセミナー・イン県央で三条、燕地域の5つのこども食堂が活動発表を行った。
三条市の本町六、かじまちの家でのわくわく食堂、井栗公民館でのおひさま食堂、大崎公民館でのみんなの食堂、燕市の東栄町自治会館などでのつばめ地域食堂、白山町児童館での白山町みんなの食堂だ。
それぞれ月1回程度、昼食を無料または低価格で提供している。スタッフは全員ボランティア。地域の子どもたちが参加している。

貧困や親の育児放棄などで寂しい思いをしている子全員に参加案内が届いているかどうかは分からない。プライバシー保護の問題があって、どこに困っている子がいるのか確認できないためだ。行政も守秘義務があるため、ボランティアに対しても情報提供はできない。
新潟市がプライバシー保護とボランティア支援の妥協点を探る試みを今月から始める。
市が児童扶養手当を受給しているひとり親家庭などの意向を確認し、希望した世帯だけを市民団体の「にいがたお米プロジェクト」に連絡。同団体から希望世帯にNPO法人フードバンクにいがたが提供するコメを毎月5㌔、無料提供する活動だ。
今年度はモデル的に東区の100世帯に限定して行う。
問題点を指摘するばかりで何もしないより、まず実践し、問題点を改善していく姿勢は見習うべきと思う。

2018年11月08日

さんま さんま

 「さんま、さんま、さんま苦いか塩っぱいか」は詩人佐藤春夫の『秋刀魚の歌』の一節。
 この詩は「あはれ秋風よ、情あらば伝えてよ、男ありて、今日の夕餉(ゆうげ)にひとり、さんまを食ひて思いにふけると」で始まる。
 男の心に浮かぶのは「あはれ、人に捨てられんとする人妻と、妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、愛うすき父を持ちし女の児は小さき箸をあやつりなやみつつ、父ならぬ男にさんまの腸をくれぬと言ふにあらずや」という情景だ。
 「人妻」は文豪谷崎潤一郎の妻千代、
 「女の児」は谷崎と千代の子の鮎子のことで、
 「男」は佐藤自身だ。

 女好きの谷崎は千代の妹で小説『痴人の愛』のモデルにもなったせい子に手を出し、夢中になっていた。
 離婚したばかりの佐藤は千代に同情しているうちに友人の妻を好きになってしまった。
 昔の人は道ならぬ恋をして詩をつくり、文化勲章をもらった。
 現代人は道ならぬ恋をして週刊文春のネタになっている。


 なぜ『秋刀魚の歌』なのだろう。
 『鯵(あじ)の歌』や『鯖(さば)の歌』『鰯(いわし)の歌』ではダメだったのだろうか。
 「さんま、さんま、そが上に青き蜜柑の酸をしたたらせて」を「あじ、あじ、そが上に」とした場合、塩焼きを急いで食べ過ぎて舌を火傷してしまったように誤解されるかもしれない。
 「さば、さば」ではさばさばし過ぎて人妻への恋心が伝わらない。「『鯖の歌』を読む」を略して「さばを読む」となったら、文字数や年齢をごまかしているみたいだ。
 「いわし、いわし」では「いわしの頭も信心から」が思い浮かび、禁断の恋などくだらないと思えてくる。

 「さんま、さんま」と続けてあの細長い姿が思い浮かぶから、もの悲しさが伝わるのだろう。
 あじやいわしでは均整が取れ過ぎていて男一人の食卓のわびしさが感じられない。
 細長ければいいというものでもない。
 「うなぎ、うなぎ」ではギトギトした欲情が出過ぎて嫌らしくなる。
 やまり「さんま」なのだ。

 でも、この詩の舞台は大正時代の東京。平成最後の新潟の晩秋にさんまを食べたら、それも新米と一緒に食べたら「うめー!」。
 もの悲しくもわびしくもならず、うれしいだけだった。
 詩人にはなれない。