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2018年01月27日

身勝手な意見書

 埼玉県議会が原子力発電所の再稼働を求める意見書を可決し、国に提出した。
 埼玉県内に原発はない。
 東京電力が世界最大級の柏崎刈羽原発や、チェルノブイリと並ぶ史上最悪の事故を起こした福島第一原発などで作った電気を使ってきた県だ。他県の原発で作った電力を消費するだけの埼玉県が、新潟県や福島県にある原発の再稼働を求める意見書を国に提出したわけだ。

 なんとも身勝手な意見書だ。新潟県議会はこれを黙って見ているつもりなのだろうか。埼玉に手も足も出ないのは、サッカーJリーグの浦和レッズに勝てないアルビレックス新潟だけにしてほしい。

 正式名は「世界で最も厳しい水準の規制基準に適合すると認められた原子力発電所の再稼働を求める意見書」。
 エネルギーの安定供給や経済効率性の向上、環境への適合のために原発の再稼働は「欠かせない」とし、原子力規制委員会が規制基準に適合すると認めた原発の再稼働を国に「強く要望する」ものだ。

 関係団体から要望を受けた自民党埼玉県議団などが昨年12月定例会に提案、賛成多数で可決した。同県議会では県議86人のうち6割余の52人を自民党が占めているという。意見書は衆参両院議長、首相、経産相、原子力防災担当相に提出した。

 原発立地県が意見書を提出するならともかく、埼玉県のように自分たちの地域への立地は認めず、他地域の原発で作った電力を消費するだけ、いわばリスクは負わずに便宜だけを受けてきた県が、国に再稼働を求めるのはいかがなものだろう。
 原発立地県民が「いい加減にしろ、再稼働を求めるなら自分たちの地域に原発を造れ」と思うのは当然のことではないだろうか。

 意見書では「将来の世代に負担を先送りしないよう高レベル放射性廃棄物の最終処分に向けた取り組みを強化すること」も求めている。
 原発から出る、いわゆる「核のごみ」は処分場受け入れ地域がないため、原発敷地内と青森県六ケ所村にため込まれている。再稼働すれば「核のごみ」はさらに増える。「将来の世代に負担を先送りしない」というなら、埼玉県が最終処分場を受け入れればいい。
 それもせずに「再稼働しろ、核のごみは原発内にためておけ」はあまりに勝手だ。

 意見書には法的拘束力も大きな政治的効果もない。だからといって新潟県が言われっぱなしでは腹の虫がおさまらないという県民も多い。県議会はきちんと反論すべきではないだろうか。

2018年01月23日

強気を助け、弱きをくじく農政

 野菜が高い。
 白菜、キャベツ、レタス、大根いずれも例年の2倍以上の高値が続いている。
 昨年秋の天候不順の影響という。本当にそれだけが原因なのだろうか。
 日本は食料自給率が低いだけではない。国内で作っている野菜の種子も大半が外国産だ。
 白菜やトウモロコシはアメリカ、キュウリは中国、タマネギはフランス、ニンジンはチリ、カブはニュージーランドなどから種子を輸入している。
 ほとんどがF1種と呼ばれる交配種で、第一世代だけ成長が早くて収穫量が多く、形や大きさもそろっている。第二世代以降、そうした特性は消える。生産者がF1種で育てた実から種子を取っても良い野菜は育たない。毎回、種子を買わなければ作れないようになっている。

 日本の野菜は、以前は地域の気候や風土に根付いた固定種(在来種)から作られていた。
 自然の種子から育った野菜は形も大きさもさまざまだ。
 F1種なら同じものが効率よく大量にできる。日本もいつの間にか大量生産向きのF1種に入れ替わった。
 世界ではモンサントやデュポンなど巨大化学企業が種子の市場を牛耳っている。
 上位5社の世界の種子市場占有率は7割。種子と肥料、農薬をセットで売っている。
 モンサントなどは強力除草剤のラウンドアップで儲け、同時にラウンドアップをまいても育つトウモロコシなどの種子でも儲けている。
 巨大企業が市場占有率をさらに高めたら、企業が世界の野菜市場まで思い通り動かすことになる。
 種子と肥料と農薬の生産や流通をコントロールできたら人類の生殺与奪権を握ったようなものだ。
 日本の野菜の高騰ぶりを見て、巨大企業はいまごろ種子の値上げを考えているかもしれない。

 日本はこれまで稲と麦、大豆だけは巨大企業の支配下に置かれることを免れてきた。
 昭和27年に制定した主要農作物種子法によって稲、麦、大豆の種子の品質管理と安定供給を都道府県に義務付けたからだ。
 その種子法がことし3月末で廃止となる。
 政府は農業競争力強化支援法で「都道府県が有する種苗の生産に関する知見の民間事業者への提供を促進すること」まで定め、巨大企業の参入に便宜を図っている。
 まさに「強きを助け、弱きをくじく」。こんな農政でいいわけがない。

2018年01月19日

自己責任

 自己責任とは「自分の行動の責任は自分にある」ことだ。
 自由意思に基づいて自ら選択した結果は、本人が責任を負うという意味だ。
 先日、弥彦山を登った新潟市の女性が下山途中、雪の重みで倒れたスギや落雪に巻き込まれ、出血性ショックで死亡した。
 弥彦山を所有する弥彦神社と、登山道を管理している弥彦村は昨年12月、今回の事故とは別の場所で登山道の崩壊や倒木を確認したため、「通行禁止」の立て看板を設置した。その後も登山する人がいたため、看板に「登山は自己責任で‼」を加えて警告してきた。
 にもかかわらず犠牲者が出た。弥彦村と弥彦神社は事故の翌、登山道を全面通行禁止とし、登り口を立入禁止テープなどで封鎖した。

 全面通行禁止には賛否両論がある。弥彦山登山愛好者の間には「登山は自己責任なのだから、一律に禁ずるべきではない」といった意見もある。
 自己責任といっても、実際に事故が起きれば個人では責任の取りようがないことも起こる。消防や警察からも捜索や救助、実況見分などに多数が出動する。今回はヘリコプターまで出動した。
 自己責任と言いつつ、人の命にかかわることが起きれば
 「樹木の手入れは十分だったのか、倒木の危険を予知できなかったのか」
 「登山道の崩壊部分をなぜ放置していたのか」などと管理責任が問われることにもなる。
 登山者の「自分の命は自分で責任を取ります」だけでは済まなくなる。無人島で一人きりならともかく、社会に生きている以上、「死んだら遺体は放置しておいて」というわけにはいかないのだ。

 遊んでばかりいて勉強せずに受験に失敗したことや、運動せずに食べてばかりいて太ったこと、放漫経営のため会社が傾いたことなどは他人のせいにできない。自己責任だ。
 だからといって「自由競争に敗れた負け組が貧困にあえぎ、生活保護費を削られるのは当然」「所得や雇用の格差が拡大するのは競争の結果であって、負けた方が悪い」といった市場原理最優先の自己責任論がまかり通ったら強者はより強大に、弱者はますます弱くなる。治安は悪化し、社会は混乱する。
 なんでもかんでも「自己責任」という世の中は危ないのではないだろうか。