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2017年05月29日

私事ですが・・・

 「私事で恐縮ですが」という前置きがある。
 本来、公的なことを伝えるべきところで個人的なこと、一身上の事柄に触れるときに使う。私的なことを述べようとする際には事前に断り、詫びなければならないほど、公私の区別がしっかりしていたということなのだろう。
 会合でのあいさつや手紙など、公のことを伝える場で私事に触れることは非礼なことで、できるだけ避けるべきという文化が古くから日本にあったため、「私事で恐縮ですが」という言い回しが残っているのだろう。「私」を前面に出そうとはしない、自分を売り込むような言動は慎むという奥ゆかしさが昔の人たちにはあった。


 いまは「私」を前面に押し出す人々であふれている。
 「わたし的にはそういう雰囲気も好きですよ」といった言い方をよく聞く。「私は好きですよ」と明確に言うことを避け、「わたし的」とすることで意味をぼかし、あいまいにしておきたいための表現なのだろうという人がいる。そうだろうか。もっと品のない、図々しさを感じる。
 「私って不器用な人だから」とか「私って几帳面な人だから」「私って辛いものが苦手な人だから」という言い方も聞く。自分で自分を定義するのが好きでたまらないらしい。「わたし的には」や「私って○○な人」という言い方は、自分を客観的に見ているように装って「私」の好みや性格などを強調しているのではないだろうか。


 これも「自己表現力を高めよう」とか「自己主張できるおとなになろう」といった教育の成果なのだろうか。自分で自分を定義するのは、かなり図太い神経の持ち主にしかできないことではないかと思う。
 「自分、不器用ですから」は高倉健が言うから格好良いのであって、本当に不器用な人に「私って不器用な人だから」と言われても「あ、そう」としか答えようがない。
 自分で言っているだけならまだいいが、「私って不器用な人じゃないですか~」と同意を求めようとする人もいる。あなたが器用か不器用かなど知らないし、知りたいとも思わない。
 「私ってよく他人をイラっとさせる人じゃないですか~」と言われたときだけは「そうだよね!」と同意する。

2017年05月20日

それでもぼくは・・・

 電車内や駅で痴漢をとがめられた男性がホームから線路に飛び降り、逃げるケースが相次いでいる。東京都内で3月以降、10件近く発生しており、死亡事故にいたったケースもある。その都度、電車のダイヤが狂い、数万人に影響が出ている。
 逃げた男性が本当に痴漢をしたのかどうかは分からない。
 涙をこらえて「この人に痴漢されました」と訴える健気な女子中学生や女子高校生と、いかにもスケベそうな脂ぎった中年の「人違いだ」という言い分のどちらを信じるか。駅員や警察官を含め、ほとんどが女子中高生だろう。となると、逮捕された後に冤罪を証明するのはかなり難しいということになる。

 『それでもボクはやってない』という映画がある。平成19年に周防正行氏が監督した名作だ。
 主人公のフリーターは就職試験の面接を受けるために満員電車に乗り込むが、車内で女子中学生に痴漢と間違えられ、駅員室に連行される。罪を認めれば示談で済ませるという妥協案を拒むと、駆け付けた警察官に逮捕される。家族や友人たちの支援も得て裁判で争うが・・・、といった内容だ。
 映画には複数のモデルがいるようだが、その一人、平成17年に都迷惑防止条例違反で逮捕された男性は無罪を主張して最高裁まで争ったが一、二審とも有罪、最高裁も上告を棄却したため有罪が確定してしまった。
 無罪となった例もあるものの、警察に拘留され、裁判で争っている間に社会的信用はがた落ちする。


 本当に痴漢をした犯人は捕まりたくないから逃げる。
 痴漢に間違われただけの男も、裁判で争うのは大変だし、たとえ勝っても無傷でいられないなら逃げたくなる。専門家も「線路に逃げるのは鉄道営業法違反や威力業務妨害に問われるからダメ」という点は一致しているが、「絶対にホームから動かず、その場に弁護士を呼べ」と助言する弁護士もいれば、「状況次第で積極的に場所を移すことも有効」という弁護士もいる。
 「本当にやっていないなら走ってでも逃げろ」という弁護士もいるから、どれが正解か分からない。
 一番いいのは「満員電車で通勤しなくてもいい新潟で暮らす」ことではないだろうか。

2017年05月17日

スポーツの聖地

 「目指せ、甲子園!」と言えば、他に説明がなくても高校野球のことと分かる。
 「目指せ、花園!」なら高校ラグビー、「国立競技場!」なら高校サッカー、「箱根!」なら大学駅伝だ。「両国国技館を目指す」と言っている相撲部員に「国技館で何をするの?重量挙げ?」と聞いたら怒り出す。
 聖地と呼ばれる場所がある競技は大会運営も効率的だし、人気も出やすい。
 春と夏の高校野球の大会には全国の出場校や応援団が甲子園に集まる。毎回、違う場所で開いていたら宿舎や練習場所の確保、割り振りに大混乱する。甲子園周辺では恒例とあってシステムが出来上がっている。1月2日、3日の大学駅伝も毎年ほぼ同じコースだから東京・箱根間の交通規制がうまくいく。運営がスムースであれば選手たちも競技に集中できる。

 国民体育大会、いわゆる国体は毎年、各都道府県持ち回りで開いている。新潟県では昭和39年と平成21年に開かれた。ことしは愛媛、来年は福井、再来年は茨城と決まっているが、これを知っているのは選手や大会関係者などに限られている。多くの国民は地元開催のときしか国体が開かれていることを知らない。国民体育大会という名前なのに、国民にはあまり関心を持たれていない。

 持ち回り開催は高度成長期には意味があった。開催地は30種目以上の競技を行うために施設などを整備した。それが社会資本の整備や内需拡大、競技人口の増加に結び付いた。
 日本は低成長期に入り、少子高齢化も進んでいる。政府は社会資本を拡張するどころか整理統合を進め、維持管理費を減らすコンパクトシティを目指している。会場を持ち回る意義はなくなり、固定化した方が効率的な運営ができる時代を迎えているのに、前例踏襲が続いている。

 五輪も2020年の東京までは開催都市が決まっているが、2024年の誘致に手を挙げているのは仏パリと米ロサンゼルスだけ。経費がかかりすぎるなどのデメリットが大きいためだ。
 東京五輪をめぐるドタバタ劇も続いている。いっそ「五輪は4年に1回、ギリシャ・アテネで開く」と固定化したらどうだろう。その方が無駄な投資をする必要がなくなって効率的だし、選手も観客も競技や応援に集中できるのではないだろうか。

2017年05月10日

「みんな一緒」はつまらない

 「みんなが言っている」「みんな、そうだよ」という言い方をよくする人がいる。
 例えば「みんながこのゲームを持っているんだから、ボクにも買って」という子ども。
 「この冬の流行はこのスタイルです。みんな着ていますよ」という薦め方をする店員。
 これに対して「みんなといっても具体的に聞けば数人のことでしかない」と指摘する人もいる。
 「みんな」が必ずしも多数ではないのだから気にするなという意見だ。
 実際に「みんな」が多数だった場合はどうなのだろう。多数に同調することを否定せず、「みんなと違う」ことを選ぼうとはしない点で、どちらも一緒だ。

 沈没船ジョークというものがある。
 船が事故で沈没する。船長は乗客を海に飛び込ませるため、イギリス人には「紳士は飛び込むものです」、
 アメリカ人には「飛び込めばヒーローです」、
 ドイツ人には「飛び込むことが規則です」、
 イタリア人には「美女が泳いでいます」、
 ロシア人には「ウォッカのビンが浮かんでいます」、
 フランス人には「飛び込まないでください」、
 日本人には「みんなが飛び込みました」と言った、
 というものだ。日本人は異質を嫌い、周囲と同じことを好む。

 「みんなと同じ」では成功しないのが観光施設だ。
 「あそこもやっているからうちも」という真似だけの施設にわざわざ足を運び、ものやサービスを買う観光客はいない。
 例えば「道の駅」。全国1107か所、新潟県内39か所にあるが、どこも似たようなことをしている。即売コーナーで地域の野菜や特産品を売り、食堂ではめん類や定食を提供している。農協やスーパーなど他では買えない野菜、買えない値段のものはない。他の店では食べることができない、そこだけの限定メニューもない。休日、駐車場が満杯になっても、混んでいるのはトイレだけで売り上げはさっぱりという道の駅も多い。
 観光カリスマの山田桂一郎氏は観光施設に「今だけ、ここだけ、あなただけ」の商品やサービスが必要と説いている。県央には三条市の「漢学の里しただ」「燕三条地場産センター」「庭園の郷保内」、燕市の「国上」という四つの道の駅がある。それぞれ「今だけ、ここだけ、あなただけ」の商品やサービスはあるだろうか。

2017年05月01日

PTA総選挙?

 どこの小中学校でもPTAの役員選出に苦労している。
 小学1、2年生の保護者のなかには「早くやっておいた方が楽だと聞いているから」と手を挙げる人もいるが、5、6年生や中学校になると手間取る。
 多くの人が「やらずに済むならそれに越したことはない」と考えている。だれも手を挙げず、時間だけ過ぎる。そのうちに押し付け合いが始まり、最後はくじ引きやじゃんけんとなる。
 ごく稀に「引き受ける人がいないのであれば、私がやりましょうか」と言ってくれる人もいる。貴重な存在なのだが、千葉県松戸市の小学3年生が殺害された事件では、自ら手を挙げて小学校の保護者会長に就任した男が容疑者として逮捕された。この男のせいで来年から役員に立候補する人がますます少なくなるかもしれない。


 離婚が多くなって久しい。統計を調べるまでもなく、周囲で何組も離婚している。小学校では母子・父子家庭の子どもがいない学級の方が珍しいのではないだろうか。
 子育ては夫婦2人でも大変だ。1人となると並大抵のことではない。
 働いて、子どもの面倒を見て、家事もしなければならない。「金銭的にも精神的にも時間的にも余裕がない私にPTA役員は無理です」とはっきり言える人はいい。
 言えない人はストレスをため込むことになる。他人に言いたくないデリケートな病気を抱えている人も、PTA役員を断るためにプライバシーをさらけ出さなければならない場合がある。


 PTA活動が「参加して良かった」「自分や子どもにとって大変プラスになった」と思えるものばかりだったら不満も出ない。「こんな行事や広報、本当に必要なの?」「きょうは時間の無駄だった。仕事や家事をしていればよかった」と思えるものがあるから、役員から逃げようとする。


 PTA活動は、仕事の時間を調整しやすい自営業や専業主婦によって支えられてきた。
 専業主婦などが少なくなったいま、活動の見直しが必要なのに、ほとんどの役員が一年交代のため前年踏襲が続いている。「働く親のためのPTAスタイル」の確立が必要なのに問題意識を共有するころには卒業してしまう。どこかにモデルケースがないものだろうか。