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揺れる再開発ビル パルム②  難航の末キーテナントにジャスコ

 三条市昭栄地区市街地再開発事業の発端は、新保裏館線(南北道路)だった。
 新保裏館線は昭和38年に都市計画決定した市街地の南北軸。昭和45年の市役所移転時には、この路線の早期造成が反対派説得の条件にもなった。
 昭和51年7月、新保裏館線を含む五大事業の促進を公約に掲げた故滝沢賢太郎氏が市長に就任、事業が本格化する。とはいえ新保裏館線を造るだけでは昭栄通り商店街や住宅地を東西に分断することになる。線的な開発の街路事業でも、面的開発の区画整理事業でも、地元の理解は得られない。そこで浮上したのが立体的な開発を行う再開発事業だった。
 対象区域の地権者は192人に達した。売却や代替地を希望する人、再開発ビルへの権利変換を求める人など対応は様々だった。
 キーテナントの誘致も難航した。市が選定した候補は9社。うち説明会出席は4社。市が「床の買い取り、百貨店並みの店格、公共施設の提供、駐車場の応分の負担」などの条件を提示したのに対し、3社は辞退。残ったのはジャスコ1社だけだった。
 ジャスコは「立体駐車場の同時完成、店舗と駐車場の一体化、新保裏館線の早期完成」を出店の条件とした。
 市は当初、立体駐車場は2期以降の事業と考えていたが、ジャスコの条件を満たすため同時施行に切り替えた。
 予想外の問題も持ち上がった。当時、強い規制力を持っていた大規模小売店舗法の商業調整によりパルム1の店舗面積が当初計画の1万2250平方㍍から1万1000平方㍍に、キーテナント面積も9000平方㍍から8000平方㍍に縮小されたのだ。こうしたこともあって、市が狙っていた「百貨店並みの店格」、いわゆるジュニアデパート路線は開店後、間もなく変更、低価格路線に改められた。
 ジャスコの3点目の条件だった新保裏館線はなかなか進まない。13年後の撤退時、ジャスコは営業不振の主因のひとつに「店舗への交通アクセスが悪く、予定していた商圏からの客数拡大が図れない」と新保裏館線不通を挙げることになる。
 当時でも再開発事業は駅前など集客力の強い交通の要所で施行される例が多く、昭栄地区のような場所での施行は珍しかった。キーテナントも床は賃貸形式が多く、買い取りは異例。そのうえ床の権利を持ち分あん分共有方式としたことも異例だった。
 市はキーテナントに床を買い取ってもらわなければ事業資金を捻出できなかった。店舗はオープンフロア方式の方が使い勝手が良かったことに加え、地元権利者の権利を、ある人は価値の高い1階に、ある人は5階になどと区分することも難しかったため、共有方式にした。
 ジャスコも他の地域なら買い取りや共有方式は拒否した可能性が高い。三条は地元政治家との縁もあり、トップレベルの判断で共有方式での買い取りに応じたと見られている。結果的には、この特別な措置がジャスコ撤退後のパルム存続につながった。共有方式による買い取りでなければ、ジャスコは平成13年の撤退時点で権利を処分していただろう。(スキップビート54 7月16日付け三条新聞)

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